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奄美大島

-平家落人伝承の重要無形文化財諸鈍シバヤと琉球と大和文化の複合-

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2016年、平家落人の伝承を求めて奄美大島までやってきました。ここは、平家落人がたどり着いた南限でもあり、その名残が加計呂麻島の諸鈍シバヤと呼ばれる重要無形文化財の踊りに残っています。

そして、奄美大島を車で回るだけで、琉球と大和文化が複合したことに気づきます。琉球の支配から薩摩の支配に移り、その際の支配手段が垣間見えます。そしてノロやユタという伝統が廃れているのも教えられます。

■平家落人の伝承

・平家の3氏、行盛、有盛、資盛、は奄美の南島にたどり着く。その後奄美大島に攻め入り、行盛は龍郷町、有盛は浦上、そして資盛は加計呂麻に居城を築く。

そしてその部下の蒲生氏と今井氏を湾の見張りに置いたそう。各地区には神社が設置されている。

・特に行盛は、現地に稲作や漁法を伝えたのとのこと。平家漁法跡が今でも残る。

本当かどうかは疑わしいが、そういった伝承が大和から来たということに支配的な意味がある。

(続)

■加計呂麻島の諸鈍シバヤ

・2016年10月9日に加計呂麻島の諸鈍シバヤが開催された。

このシバヤ、国の重要無形民俗文化財に指定されており、落人の平資盛が現地の人を慰撫するために開催したものらしい。「シバヤ」の語源は、「芝居」から来た説と「柴の楽屋」から来た説があるらしい。

 

・大屯神社において、地元の住民、男性だけで演じられる。神社にビニールシートが引かれてれ、地元の人が家族でいろいろ集まりお弁当を食べたり、子供たちが真似などしている。

・芝居は、別に洗練されているわけでもなく、一つの演目に5分もかからない。そして芝居の文言の中には、もう意味が伝わっていないものもある。

“敦盛の墓を探して須磨をこぐ”、というクワワ節が、平家伝承を伝える唯一のものらしい。(by MC)

・大和から流れてきたのは、平家のクワワ節や、ケンコウ節すなわち吉田兼好のことから感じられる。一方、琉球文化としては、シンジョウ節といった手踊り、そして中国の宋の時代のスクテングワ、中国堯舜時代のタマティユの紙芝居、などは中国から琉球へと伝わったのを感じさせる。

 

(続く)

■琉球文化と大和文化の複合、そして被支配の苦しみ

・今回初めて気づいたことは、奄美大島が何重にもなって被支配されている歴史の重さ。

そしてその支配側の巧みな策。

・一般には、薩摩藩から奄美大島が厳しい支配を受け、稲作からサトウキビに強制的に転換され年貢を納めていたことは知られています。そして貧しいためソテツを食さなければならなかったことや、債務奴隷に陥った農民が多くいたことも有名です。

 

しかし、大和の支配は、経済・政治体制のみならず、宗教的な面でも行われており、笠利アマンデーの伝承はその一つと言われる。これは、奄美を開闢した神様が降りた山がアマンデーなのだが、それは日本の天孫降臨を模したもの。

確かに、琉球では、ニライカナイは海からやっていくる。

 

そして、平家落人が、稲作や漁業を伝えた伝承があるのも、大和から文物が伝わることで大和の支配権を確立しようとしたとも考えられる。

 

・さらに、薩摩支配の前の琉球王朝支配も、奄美は支配された関係にある。

奄美も海洋が得意な集落だったのだが、琉球政府から大型船の建造を禁じられ海洋国家からの脱退を余儀なくされたりした。

また、琉球を中心とする文化のノロも、琉球政府が公式のノロを制定し、琉球の支配をしやすくするために信仰面での支配を試みたとのこと。

■薩摩に支配されても集落には琉球文化・コスモロジーが根強く残っている。

・奄美大島の南側は比較的古い伝統が残っている。

ノロの祭礼、家々の高倉、玄関先の魔除けの貝、なども見る。

 

・奄美の集落は、神山があり、そこから神が通る道が海に通る。そして、中央には、ミャーと呼ばれる空間があり、アシャゲ、トネヤ、という建物で祭祀を行う。共同井戸もある。そして公民館には土俵がかならずある。場所によっては、沖に立神と呼ばれる島がある。

この風景は共通している。

・一方、集落間では言葉が伝わらない程方言が別物だったらしい。集落間は山で遮られ、海の道が航路だったとのこと。

■どのような支配を受けても、民草は強い。

そして生きるそのものに意味があると教えられた旅でした。

(終)

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