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徳島祖谷の平家落人伝説

-安徳帝と平家落人の今に残る伝承と日本の原風景の生活-

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日本三大秘境の一つ、徳島県祖谷。
他の秘境と同じく、平家落人伝承と安徳天皇伝説、そして美味しい蕎麦がある。

勿論今回の旅の目的は、平家伝承を辿ること。
ここの平家落人伝説では、平家方の旗や古文書による家系図、お墓や神社などの伝承が残っており、安徳天皇が落ちてきたかは別としても平家方が落ちてきたのは間違いないのでしょう。
そして、地元の人曰く、小学校から平家伝説が教えられそれが当たり前と思っていたとのこと。

■屋島
・海岸沿いの屋島はもちろん源平合戦古戦場。
那須与一が弓で扇を射った場所。今では、海岸が埋め立てられ当時の風情はほぼない。
ただ観光資源にか、そこかしこに平家・源氏の遺跡が残り、伝承が看板に記載されている。

平清盛は福原を開き日宋貿易を推進した。従った瀬戸内海沿いに平家方の伝承が残るのは至極当然。
そして海の彼らが、落ちていったのが深い山の中。

(続)

■剣山
・祖谷へ至る道として、小便小僧や大歩危小歩危の西祖谷から入り、奥祖谷の東祖谷まで。
剣山は日本百名山に入っており、普段着のままでも山に登れる。
安徳天皇が剣を収めた山のため剣山となり、山に登る途中に平家伝承が残る。
安徳天皇が刀を掛けた刀掛けの松、山頂は平家の馬場。

◾️剣山の天辺には大岩があり神社が設置されている。
日本のほぼ全ての山にお社が有るのでしょう。そして磐座にも縄が張られている。道道にある道標で人に方向を示すなど実利はないが、何か精神的な表現なのでしょう。
何がこういった信仰を生まれさせ、そしてどのように継続してきたのか?
精神的な発露が強い人間が生物選択的に生き残こったのか、もしくは文化として知性化したのか?
そして人類に共通した精神的な敬いは何故生まれたのか?

 

(続く)

■祖谷 平家伝説
・奥祖谷には、かずら橋。2つあり、高いほうが男橋、低いほうが女橋。そして、西祖谷ではガイドさんに案内していただく。

鉾神社:平教経が国盛に名前を変えて落ちてきた。その鉾を収めた神社。
     安徳帝、国盛、の像が備えられているが、公開無し。
7人塚:平家を討とうとした源氏方は8家あった。
    一つは病気で臥せっていたが残りの7家が平家を討とうとした。
    返り討ちにあたった7人の塚。
栗枝渡八幡神社:もともと安徳天皇の行在所。鳥居がないのは隠れ場所のため。
    境内に安徳帝火葬場がある。
平家のお墓:平国盛直系の家のお墓は墓石がない。ばれないようにとのこと。
     平家子孫の阿佐屋敷の近く。この阿佐は、国盛から3代目で阿佐に名前を変えた。
     阿波と土佐にあるからで、平家が地元に土着した結果とのこと。

・日本の山奥には必ず平家の落人伝説など敗者に関する伝承が残っている。
この厳しい場所に、平家の落人が来て、生き永らえ、安徳帝を弔う。
平将門や崇徳院の怨霊とは異なる扱いは何なのだろうか?
滅んだものの平穏を祈られるのは、なんと成熟した文化なのだろう。

(続く)

■平家前の伝説
・平家の落人(1184年壇ノ浦前後)以前に、恵伊羅御子と小野老婆が祖谷を切り開いた伝説が残っている。
800年前後に二人が入山し、農耕や機織りを伝えたらしい。
小野老婆がそばを伝え、ある時、そばを脱穀していて陽が沈みそうだったので太陽を戻した(清盛の福原作りに似ている)。しかし老婆が死んでしまった。そばの赤い部分はこの老婆の血であり、太陽を戻してはいけない、とのこと。

・農業の始まりや、寿命の限界など、自然のことに理由をつけたがるのが、伝説として残っているのが面白い。

 

■祖谷の今の生活
・源平合戦が思い出されるのは昭和の選挙。
あちらは源氏、こちらは平氏、となりバチバチ戦うこと。終われば何もなかったように鎮まる。
・お雑煮に豆腐があり、その豆腐を十字に切っている。これは源平合戦を示している。
・江戸時代、平家方は地元を納めた武家になる。平家が歩くと、皆が土下座し、年貢も厳しい。因果応報で平家は滅んだ、という人もいた。
・昭和初めまでは山々は焼き畑。米作りは適しておらず、タバコや阿波牛もあった。
そして山肌に家々が建っている。今は空き家も多い。なぜ山肌かというと、国道が通っていない時には隣集落まで行くのは山を越えたほうが近かったから。

(終わり)

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