日本三大秘境の五箇山の祭り
ー平家落人伝承が残る山村集落と麦屋踊り、こきりこ祭ー
2016年、合掌集落で世界遺産に登録されている富山県五箇山にて、麦屋祭りとこきりこ祭りを鑑賞しました。
当地域は、岐阜高山の白川郷と共に1995年に登録されていますが、比べると小さな日本の農村の暮らしを色濃く残しています。日本三大秘境の一つであり、平家の落人伝承で有名です。
今回は、平家落人が伝えたという麦屋踊り、さらに日本の古来からある田楽を色濃く残すササラを使ったこきりこ踊り、を見ることが目的です。
■旅程
○五箇山
五箇山に向かうには、大きく、2つの経路があります。一つは、北陸新幹線を利用し、高岡駅から世界遺産バスを利用するもの。もう一つは、岐阜高山駅からバスで白川郷を経由し五箇山に至る経路です。
今回私は前者で伺いました。
■合掌集落 相倉集落にて。
・ここには念仏道場が2つあり、100mほど離れたところに、西にあるけど東方道場の東本願寺、東にあるけど西方道場の西本願寺がある。この東方は今は寺号が与えられているそう。
この東方を建てる際、西も東も関係なく、集落の人が手伝った。その結果、その恩返しに、東方のお寺から、その仏間が西方に寄付され、それが西方道場の今の建物だそう。
・五箇山は、その昔、産業が、生糸、和紙、塩硝だった。
この塩硝は織田信長と本願寺の石山合戦の際にも本願寺支援のため送っていたそう。そして加賀藩時代になっても、この塩硝は質が良かった。そのため、作り方が漏れないように、川に橋を架けなかった。もう一つは罪人が逃げないようにしていた。
・さて、茅葺の家。
茅葺は、一抱えの茅の束が2,500個も重ねて作られている。
昔は、一日総出で引けたらしいが、今は組合の方が1週間程度で引きに来る。15年に一度吹き替えが必要になる。この茅はどこからくるか?茅を育てているのは、山の裏手側。表側だと木を切ってしまうので雪崩が起こってしまい、集落に被害が出る恐れがある。だから裏側で育てている。
この茅も素材としてはよく、他の地域では麦わらなどを使う。この茅は、中が空洞になっていて空気を貯め水を吸収しない素材。
家の障子は、この五箇山の和紙。非常に紙が強いため、茅葺家の2階や3階の外側にも張り出しているぐらい。ただ年に一度はさすがに障子を張り替えている。
各家は、床が塩硝づくり、3階が蚕、など作業場が分かれていた。
各家の前には水だまりがある。これは勢いよく水が出ているが、井戸ではなく山の水。井戸はないらしい。
(下へ続く)
■“麦屋節”
・木曽義仲に敗れた平家が落ち延び伝え、刀を農作業の鎌に持ち替え歌った民謡との伝承がある。ゆえに、麦屋節の歌い出しには“波の屋島の~♪”ともあるし、その踊りには刀を脇に差して踊る。
平家物語が好きな人には一倍哀愁がありますが、踊りはきびきびして所作に様式美を感じます。
■集落の個性の尖がり=生物多様性との類似
・ここ五箇山はいくつかの集落の総称。この中で、集落ごとに民謡があり、この民謡はあの集落の元唄、などとある。つまり、集落から集落へ民謡が伝わりつつ、それを変容させていき村の個性にしていったと読み取れる。
・この小さい集落で、と思われるが、小さく閉じた集落だからこそ、個性が生まれていったのかもしれない。
→実は、生物の遺伝子も似ている現象。例えば、人類は十万年前にアフリカを出立しているが、世界に広がった人類の遺伝子的広がりと、アフリカにとどまった人類の遺伝子の広がりは、今のアフリカ人のほうが遺伝子的には多様だそうです。
生物進化と社会文化進化の動作原理の類似性を感じさせます。
■古来から交易のつながり
・麦屋節の民謡では、三味線が使われていますが、三味線といえば、沖縄の三線が日本海側を伝わり津軽三味線になったことを思い起こさせます。おそらく能登に上陸したものがが、ここ五箇山まで伝わったのでしょう。
・となると、古来から、山奥といえど日本海の交易路と、加賀・越中とここ五箇山の山の交易が交わっていたと分かります。
→昔の日本は、農村中心の自給自足生活、交易も少ない、というイメージは間違いで、かなり交易が豊かに行われていたと想像させます。過去の日本人の生活・経済の固定観念を新たにすることで、現在のグローバリゼーションの意味を問い直すことも必要かもしれません。
■結いの多面性
・日本各地に残り、消えて行っている結。東北の沿岸でもありましたし、椎葉村でも再生させようと努力されていました。
・ここ五箇山では、有名な結が、茅の吹き替え。約15年に一度吹き替えるらしく、昔は村人総出で一日で拭き替えていた。そしてその茅は山の裏手で栽培していた。今は組合に委託しているそうです。
・そして、結いに近い形は、茅葺だけではない。例えば、ここ五箇山は江戸時代塩硝が有名だった。この塩硝は、各家々の集落の下で作っていたがそのろ過などは集落内で分業していた。つまり、経済活動として切り離せない体制ともなっていた。また、庄川という川には橋がなく、籠を渡していたのだが、これも集落が共同で運営していた。
→つまり、結いとは、経済活動の一シーンだけではなく、様々局面で構成されていたと分かる。震災以後の“絆”という人の良心に訴えるものだけではなく、様々な場面での相互依存、interconnectの仕組みを社会に実現する必要があるのでしょう。
(終わり)