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奥吉野から熊野古道/

Deep Japan, Yoshino &Kumano

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■宮崎椎葉村や飛騨の五箇山、信州遠山郷などこれまで回りましたが、とうとう最後といっていい日本の秘境、

奥吉野と熊野古道を巡りました。

日本の旅の集大成と言って良いですが、それだけの価値がここ奥吉野と熊野古道にはある。

 

何回かに分けて旅しました。

奈良は東吉野村から入り、川上村、上北山村、十津川村、天川村、

和歌山の那智から入り、補陀洛寺、熊野那智大社、速玉大社、高野山、

そして、吉野山の桜と西行庵。

■日本らしい秘境、というのは、日本人の歴史や文化、価値観などがそこかしこにあるから。

 

一つは、日本の宗教観。神道と仏教の神仏習合や熊野信仰。

・高野山は弘法大師空海が開いた根本道場。そしてこの場所を見つけたのは、空海が唐の国から三鈷を投げてたどり着いた場所。ここで狩場明神=丹生明神が案内してくれた云われから、高野山境内に御社がある。神仏習合の象徴。

 

・那智の補陀洛山寺は、平安時代から江戸時代にまたがり20数名が捨身のため舟で海に乗り出した。観音浄土へ向かう補陀落渡海。「行」であるが、これは上人たちが世の中を救うために捨身したのではないか。東北の捨身仏と同じ意味合いではないのか。

・自然信仰、アニミズムもそこかしこに見つかる。那智の滝は代表的な例。麓には飛瀧神社があり滝がご神体として祭られている。

​(続く)

二つ目は、日本の歴史の変曲点。神武の東征、南朝と後南朝、明治維新の討幕。

 

・神武天皇が日向から大和へ入った道は、ここ那智から吉野を抜け、宇陀通り、橿原へ抜けた。「夢渕」は、神武天皇が天神地祇を祭った場所であり、そのおかげで大和を平定したとのこと。そして「玉置神社」は、神武天皇が兵を休め、玉を鎮め置き武運を祈った場所。

 

・南朝は言わずと知れた吉野山が後醍醐天皇が逃れてきた場所。その後歴史的には南北朝合を果たすが、南朝の末裔が吉野へ逃げ、後南朝として自天皇や忠義王が宮を建てた。それら、南朝、後南朝の悲哀がここにはある。

 

・そして幕末。討幕の先鞭として吉野の天誅組が起こるが討伐される。

 

日本の中心であった京都や奈良から距離は近いが、奥深い山の中、逃げ込んできた皇族を守り勤皇が根強いのは、地方色を感じる。

​(続く)

三つ目は、市井の生活の中での趣

・福源寺は曹洞宗寺院。ここを訪れると住職が忠義王の遺品などを見せてくれた。それ以外に、空海いわれ、菅公いわれ、三種の神器関連、など様々な宝物を説明してくれた。これら宝物の真贋はともかく、このように伝承やいわれを大事にする姿に、伝承や伝説がどのように継承されてきたか感じさせる。

 

・日本の田舎は自然を想う優しさや神仏を敬う心が残っている。

例えば、丹生川上神社では、境内のさい銭箱に鳥が巣を作ったため、お賽銭は別の箱に、と書かれている。宇陀水分神社では、参詣しましょう、と看板が建てられている。

 

・天川村の栃尾観音堂には円空仏が4体ある。

この天川村を歩いていると、弁財天の雰囲気や在原業平の墓、など、??という印象を受ける。何か土地の持つ魔力をもち異次元の感じがする。しかしこの観音堂だけは庶民の味方であり、市井の拠り所を感じさせる。

(続く)

四つ目は、寂寥感を美しく思う心情

・吉野山の奥千本には、平安末期の西行庵がある。桜をこよなく愛した西行らしいが、いざ尋ねると侘しい場所にある。人里を離れ無為自然に暮らす元武士の心持を想わずには言われない。

 

・そして平維盛の墓が十津川村にある。維盛は平家の行く末を案じ、紀伊で入水したことになっているが、その後逃げ逃れここまでたどり着いた。この墓の下の家はその子孫で、家には女性が入れない居間があったとのこと。

 

滅びゆくものへの悲しさが、蓄積されているのが、ここ吉野。

​(終わり)

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