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隠岐の島

ー無形民俗文化財の久美神楽と

天皇配流地や隠岐騒動、廃仏毀釈に見る離島文化ー

2014年、島根県隠岐の島へ。隠岐の島は4つの島からなり、島後本島と西ノ島を周りました。
・後醍醐天皇の足跡、
・島後久見神楽
・幕末の隠岐コミューン
・日本でもっとも激しかったといわれる廃仏毀釈の跡
がメイン。

■隠岐の自然

・隠岐の島はユネスコの世界ジオパークに登録されています。ジオパークの登録由来は、いろんな緯度の動物・植物が一つの島で見れること。
・サンショウウオやたんぽぽなど独自の進化を遂げている。サンショウウオは、静型か流水型で爪の無・有などが混在しており、進化の途中経過が見える。
タンポポは外来種が侵食してきており、危機的な状況らしい。隠岐型は花びらの下が上向き、本土は下向き。
・島は火山島で600万年前に噴火でできた。
・黒曜石は縄文時代から隠岐から輸出されており、本土まで丸太船で半日で着く。
・隠岐で最も大きい野生動物は野兎。隠岐ウサギは後ろ足が長く耳が小さい。 

(下へ続く)

■隠岐の廃仏毀釈

・隠岐国分寺は後醍醐天皇が配流されたときの行在所。

・明治初め、政府から、神祇官復活ならびに神仏判然令が出され、社殿の仏像・仏具は取り除きの令が出る。隠岐では特に、隠岐コミューンの隠岐騒動と一体となった社会運動化し、厳しい廃仏毀釈が行われた。ここ国分寺の社殿も破壊され、今や礎のみ。

天皇由緒も宗教運動に破壊される。

・廃仏毀釈の時には、追放や還俗を強いられ、島には一時一人も僧侶が居なくなったらしい。島を周っても、首がない仏像が道端によく見かけられる。

(下に続く)

■久美神楽

・隠岐の神楽は、古来は特定の家系によって伝えられてきており、明治に初めに制度が無くなる。日本各地と同じように、その後農民などの市民が中心で行われてきた。

・観賞本意ではないため、舞では神楽殿の中央に向かって舞われ、太鼓が打たれる。従って、太鼓は見る側に背を向けている。

 

・伊勢命神社にて島後久美神楽が執り行われる。女性の巫女神楽でも有名らしい。

夜9時から始まる。地元の人が集まってきており、出店などもなく、神事を感じさせる。そして、藁を引いて座っている。そして早朝まで執り行われる。

(下に続く)

■隠岐の文化

・水若酢神社は隠岐の一宮。水若酢古墳の上に立てられている。

・この神社には土俵がある。隠岐は相撲が盛ん。有名なのは隠岐相撲。
島の中が10か所ぐらいの地区に分かれており、その中から3人の相撲取りを選ぶ。地区対抗で戦う。この最高位は大関まで。3対3で、各2回ずつ戦う。その2回目は1回目に勝った方が負ける、というルール。これが狭い島で生き抜く手段。

 

・牧畑という手法が隠岐の島独自の農法。最初は穀物を育て、その後牛・馬を飼い、その後肥料が残るので穀物を育てる、という放牧と耕作を繰り返すパターン。その昔、中世時代には始まっていたらしい。牧畑は、平地が少なく農業に適した土地が少なかった隠岐の島ならでは。昭和戦後には、食料事情が好転したため消滅した。今では牛・馬の石垣が残るのみ。

 

・隠岐の島の家には、「としとこさん」が祭られている。

これは、日本本土の歳神さん。一般には、春に田に下りてきて、冬には山に帰っていく神様。ここ隠岐では冬は家の中にいる。なので冬でも祭壇で祭っている。

 

■激動の歴史

・ここ沖ノ島は後醍醐天皇が配流されたことでも有名。

西の島には黒木御所址が残り、柄杓を落とされた「シャクノエ」(赤の江)が地名として残り、腰掛の石なども残る。

・1868年、隠岐騒動が起こる。江戸時代から松江藩の圧政があった隠岐の島。江戸末期の尊王攘夷思想がこの地に伝わり、明治時代が始まったにも関わらず、島民は当時支配していた松江藩の番所を襲い追放。人民による自治政府、隠岐コミューンを創設。しかし松江藩の武力投入で2か月で解散に。

(下に続く)

■感想

・日本の島文化は、カルチャーや風習が凝縮されて、かつ古式ゆかしく残していますね。久美神楽は見世物や園芸という感じではなく神事面が強く残っていますし、隠岐コミューンや廃仏毀釈は、当時の雰囲気がこの離島で先鋭化し純粋に信じた人々の心が現れた気がします。

また、隠岐の港の雰囲気は大正時代から残る道路や建物であり、第二次世界大戦で焼夷されたわけでもなく、高度成長期後に開拓されたわけではなく、脈々と受け継がれる生活を感じます。

(終わり)

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